「まだ、羽化はしないようだね」
イチはあたしのむき出しの背、肩甲骨の辺りをなでながら言った。髪の色と同じ茶色の瞳を優しげに細めて、待ちきれないといったような。真っ白なシーツに包まってあたしは答えない。というより彼は返事なんて求めてないだろう。あたしの意思なんて関係ない。きっと太陽が死んだってイチは動揺なんてしないんじゃないだろうか。笑顔の下は冷たい雨のような感情しかないように感じる。感情は止まることはないのに、そのすべてが冷えている。
「ルリ、起きて」
「っ」
痛い。爪をたてられた痛みに思わずうめくとイチが満足そうにわらったのがわかる。悪趣味という言葉が脳裏に浮かんでしずむ。背中はずきずきと痛むのだ。ただ日常化した痛みは慢性的なものになってもう痛くなかったころのことなんて思い出せない。痛みに反応を示さないことに、どうして彼がいらだつのだろう。痛みに痛みをくわえて、それを快楽と感じるほどあたしは痛覚がくるってるわけじゃない。
「痛いんだけど」
「ごめんね」
痛みはやまない。ごめんねをただ記号のようになぞる声に不意に吐き気がする。イチは何を。何をあたしに何を望んでいるのだろう。チルドレンと呼ばれるおもちゃの集合。金持ちの道楽につくられたがらくた。夢は夢のまま、希望は希望のまま、あたしの一歩先で永遠に点滅する。重なることはない。たとえば双子のドール、彼らが希望という夢に手を伸ばして真っ赤に染まったように。光に触れる罪はおおきい。うける罰はもっとおおきいのではなかっただろうか。かみさまはいないから。白く小さな手をどれだけのばしても。
「きみが大切だよ」
唐突にイチは言った。相変わらず優しいのに温度を感じさせない声で。大切って何だろう。イチがあたしに抱いているのは所有欲だ。イチが何かに執着するなんてそんなこと。想像するだけでおそろしい。お金も権力もすべてをもっている者の執着は狂気に似ている。イチはそういうのを感じさせないから、たぶん、それはあたしではない。イチの言葉はただなぞるだけ。むなしくないだろうか。それこそ口にできないほどに大切なものを、もっていないのだろうか。
「ぞっとする」
「つれないなあ」
イチは小さくわらうと傷口をやさしくなでた。いたいいたい。イチの手はこんなにも冷たい。綺麗な顔をして、綺麗な指先を持っているのに、イチの手はきっとものすごく汚れてる。吐き気がする。早く死んでしまいたい。だけど死にたくない。彼にあいたい。
「もうだいぶ体調はいいみたいだね。明日には熱もさがるよ」
彼にあいに行こう。明日熱がさがってあたしがまだ生きていたら。彼は相変わらず弱いのかな。弱いけど、それを覆い隠すほどのつよさをいまも持っているのだろうか。せかいは汚いから。それでも彼はせかいをあいそうともがいていた。あのじごくの場所で。あそこからは出られたけれど、いまといったいなんの違いがあるんだろう。結局はなにも変わっていない。あたしはきっと、
「羽化したら、」
「そうなってみなければなにもわからないよ」
イチはあたしの言葉をさえぎると頭にちいさくキスをおとして部屋から出ていった。
はやく死にたい。
だけど彼にあうまでは生きていたい。
白いシーツを引き寄せてあたしは目を閉じる。彼は今、息をして、あたしと同じようにまだ生を得ているのだろうか。
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「彼」はそらを見上げる。にぶく曇ったそら。小さくわらってみて、あの日を思い出す。重たいそらの日だった。蝶だって羽化を取り消して蛹の中で小さく眠る。木々さえも眠っているような、そんな中で。
「ハイド」
「彼」はあめだまを転がすようにあまくつぶやく。それは名前だった。だれかの名前。「彼」の名前だった。そして自分の片割れの名前だった。
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